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 一方、「ブーヴェ」は損傷を修理すると再びカリブ海の哨戒任務に戻って行き、大・小のアンティル諸島や南米沿岸を巡航しましたが、71年の9月17日、イスパニオラ島西部・ハイチの南側にあるア・ヴァッシュ島近海で突風に煽られてサンゴ礁に乗り上げ、酷い座礁を引き起こしてしまいます

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乗組員は全員落ち着いて避難し、大破した艦は放棄されました

ハバナに入るブーヴェと追うメテオール(イメージで史実とは違います)※「24時間条項」 「メテオールとブーヴェの決闘」以外、普海軍の艦艇が閉じ込められた「中立国」の港湾では、当時も生きていた習慣国際法による「24時間条項」(交戦国の艦船は中立港に24時間以上碇泊出来ない・交戦国同士の艦船が同一の中立港に入った時、一方が出航後、他方は24時間以内の出航を禁止する、など)が適用されていない様に思えます

 これは普艦船が「故障と破損」を理由に碇泊を伸ばした(故障や破損で走行困難な場合は碇泊延長が認められます)のではないか、と想像します

仏側もこれら艦艇を封じ込めてしまえばいい訳で、自身も傷付く可能性がある海戦で撃破することを積極的に望まなかったのでは、と思われ、又、別の理由としては、日本を除く中立国(スペインやポルトガル)が「普寄り」だったから、と思われるのです

 習慣国際法はあくまで文明国同士の「紳士協定」で、当時は中立国義務違反に対する罰則も相手を非難すること位で特にありませんでした

日本については当時「世界デビュー」直後であり、欧米から三流国扱いされていたので「中立国」とは思われていない=どうとでも都合が良いように扱える、と解釈されていたのではないでしょうか? 「海戦における中立国の権利と義務に関する条約」(陸戦協定とは別の「ハーグ協定」)が実効となるのはこの戦争の40年後ですが、有名なポケット戦艦(装甲艦)「アドミラル・グラーフ・シュペー」が自沈する羽目となったモンテビデオ港の出来事(1939年12月)は、英国寄りのウルグアイ政府により、艦が燃料加熱蒸気パイプの損傷などにより長期航海不可能な「深刻な損傷」状態にあったにも関わらず「72時間以内の出航」を通告されたことを見ても「どうにでもなる協定」だったことが分かります

普大本営では未だストラスブールの攻囲が続く9月中旬、オー=ラン県(県都コルマール

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独語オーバーエルザス/上アルザス地方)も完全に占領し、同地にある地方要塞都市を根拠地に活動する仏義勇兵らを根絶してライン川を挟んだバーデン大公国民の不安を取り除くことを決定しました

 普国王ヴィルヘルム1世は9月20日に軍命令を発し、普王国本土内で保安・国境警備に従事する正規軍と後備軍から歩兵15個大隊・騎兵2個連隊・野戦砲兵6個中隊・要塞工兵1個中隊を抽出し、「普予備第4師団」を創設し、上アルザスの平定と諸要塞の攻囲に充てるよう命じます

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 普予備第4師団の師団長にはフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将が任命され、師団は正規野戦軍歩兵1個連隊(3個大隊)、東プロイセンの後備歩兵3個連隊(各連隊は4個大隊)からなる2個歩兵旅団と予備騎兵第4旅団(騎兵2個連隊)を中核に軽砲4個・重砲2個中隊からなる予備砲兵1個大隊に要塞工兵1個中隊による「大型師団」(通常野戦師団は歩兵12個大隊・猟兵1個大隊・騎兵1個連隊/4個中隊・砲兵1個大隊/4個中隊・工兵1個中隊)となりました

 招聘された各団隊は9月下旬までにフライブルク、ブライザハ、シュリーンゲン(全てバーデン南部の都市)付近に集合・完結し、ノイェンブルク(=アム=ライン

仏ミュールズの東北東18.2キロ)付近でラインを次々に渡河して仏領に侵攻します

独軍のストラスブール入城 この頃、タイミング良くストラスブールが陥落(9月28日)し、月末の30日にストラスブール攻囲軍の諸隊にも命令が下り、普後備近衛師団はパリの包囲網に向かい、普予備第1師団はアグノーからストラスブールに移転したエルザス(アルザス)総督府の隷下となりました

この師団からは一支隊が結成されてベンフェルド(ストラスブールの南南西26キロ)とエプフィグ(ベンフェルドの西9.8キロ)に進み、セレスタ(独名シュレットシュタット)要塞の本格監視を開始しました